2008年3月25日火曜日

ヘーゲル 其の六

「自由」な存在となること、自分の生き方を自己決定しうることは、近代人の生の欲望の新しい目標、言い換えれば、宗教的な「信仰」に代わる人間にとっての新しい「超越」(=「絶対本質」)となったのである。

こうして、近代人の求める「絶対本質」は、「わたしの意志は万人の意志であり、万人の意志がわたしの意志である」という「絶対自由」の理念へと結実していく。「絶対自由」は近代の「啓蒙思想」の最高の到達点であり、その実現の試みがフランス革命である。

ここで「絶対自由」は「民衆」という理念を生みだす。「民衆のために」はひとつの絶対的スローガンとなるが、しかしもはやそれは「信仰」のように彼岸におかれたものではなく、各人の具体的な「自由」と切り離されていない。

「私の意志は、万人の意志である」というとき、他ならぬこの「私」が同時に絶対的な「民衆」でもある。ここでは、「私」という特殊性が、「民衆」という観念に媒介されてそのまま「普遍性」につながっていると感じられる。

ヘーゲル 其の五

「有用性」の思想は、人間の存在意味に決定的な変革を与える。人間はそれまで「被造物」であり、つねにより上位のものに属する何者かであった。人間の本質は「彼が何に属しているか」によって決定されるものだった。つまり「信仰」や「出自」や「身分」がその人の本質であった。

しかし市民社会での社会関係は人間の価値規定を決定的に変化させる。新しい社会では、人間の価値は、一般的に言って、彼が「何であるか」(何に属しているか)ではなく、「何になるか」(どれほど有用な存在になるか)で決まる。

そしてまさしく、この社会と価値の変化が、人々の「自由」の自覚をいっそう育て上げていく。 このような流れがひとたび始まると、人々の「自由」の解放に歯止めをかけようとする一切の既成の権威と思想は、人間の本質的な自由の発現を阻むものとして激しく指弾される。

逆に、旧守勢力はあらゆる手段を用いて新しい危険思想を抑え込もうとするが、いったん火のついた「自由」への希求は、生命を賭しても何度でも立ち上がってやむことがない。18世紀と19世紀のヨーロッパの歴史は、まさしく古いヨーロッパの体制と、生命を賭した「自由」への欲求の激しいせめぎ合いの歴史であった。

ヘーゲル 其の四

「啓蒙と信仰の対立」において「啓蒙」の勝利は必然的なものである。

「信仰」の世界説明はどうしても精神世界を限定することになり、つぎつぎに展開する世界の新しい関係をとらえることができない。近代社会において、人間の理性は新しい社会のさまざまな現象を一貫して整合的に捉えようとする恐るべき力を発揮するが、この力は「啓蒙」にだけあるのである。

「啓蒙」はその途上で、さきに触れた「理神論」と「唯物論」という新しい世界像を展開するが、そのせめぎあいの果てに「功利主義」(=「有用性」)の世界像が現われる。

功利主義の考え方のエッセンスは、あらゆるものは、「それ自体としても」(即自)存在するが、同時に「他の何かのために」(対他)としても存在する、ということである。人間も事物も、それ自体の「本質」として存在するのではなく、じつは互いに規定しあう「本質」として存在する。これが「有用性」の思想である。

すべてのものが、「~にとって」「~のために」といった存在意味において存在する。重要なのは、このような見方は、すべての人間(および事物)が必ず何か上位のものに〝属する〟ものとみなされていた中世社会では現われえなかったものの見方である、ということである。

つまり、これは市民社会において、人間も事物も相互規定的に何らかの有用性をもつ存在だ、というリアリティの中ではじめて見出された考え方なのである。

「功利主義」(有用性)という人間の新しい存在本質の発見によって、人間の精神はつぎの段階、「自分自身を確信している精神」の段階に入る。

ヘーゲル 其の三

ヘーゲルは「歴史」を以下のように描いた。

人間は現実の世界を生きてさまざまな矛盾を感じ、そこからさまざまな「理想理念」を思い描く。それは人間精神がどんな惨めな条件からでも必ず「ほんとう」を希求せざるをえない本性をもつからだ。

もちろん個別的には、単なる快楽の享受や幸福やその他の目標でとどまる人間が大多数だが、人間の精神の進み行きを大きな歴史の流れにおいて見れば、徐々に「ほんとう」への希求のかたちをより本質的なものへと展開させていると言える。

近代に至るまでそれは、主として宗教以外のかたちをとることはなかった。啓蒙主義ははじめてこれを頑迷かつ欺瞞にみちた制度、あるいは無知と蒙昧にある錯誤した精神とみなして批判する。

しかし、宗教(信仰)の本質は必ずしも無知や蒙昧というところにあるのではない。「ほんとう」への希求ということがその本質なのである。

しかし、「信仰」にとってその本質は自覚されてはいず、ある外的な超越者への絶対的な帰依として保たれている。ここにさまざまな矛盾が現われる。
しかし人間精神は、この矛盾に押されても、自己の内的な本質が外的な「超越者」となっていたことを少しずつ自覚しないではいない。

近代における「啓蒙」と「信仰」のせめぎ合いは、そのような、精神の内的な自覚の苦闘のプロセスなのである。

ヘーゲル 其の二

この「絶対本質」というミスリーディングな概念こそ、『精神現象学』のキーコンセプトである。 これはしばしば、神秘主義的、観念論的、実念論的な「実在者」、つまり「至上存在=神」とほとんど同義のものとして読まれている。しかし、「絶対本質」は人間的欲望の「超越性」として読むのが適切である。

人間の欲望の本質は、生理的な欲求を充足することを超え出ているのであって、ひとことで言って「存在可能」(ありうる)一般として定義できる。人間の欲望は固定的な「対象」と「目標」をもたない。

また人間の欲望は価値相関的なもので、「真・善・美」という価値審級を一般対象とすると言える。したがって「ほんとう」「よいこと」「美しいもの」が、人間的欲望の対象の本質である。

カントの「理性の完全性」概念が示唆しているように、人間精神は、具体的な与件を出発点として、そこからたえずより「よいもの」、より「美しいもの」を欲求するというかたちをとる。それは範例の意識としては「理想を思い描く」ということだが、概念としては「超越性」「至高性」「ほんとう」といった概念、つまり「絶対本質」となる。

重要なのは、ヘーゲルが、人間精神が自らの本質を展開してゆくその根本動機として、精神の「絶対本質」への希求、という「原理」を提出しているということである。すなわち、精神は、もし条件があればより「ほんとう」のものを求めようとする本性をもっている、ということになる。

そう考えれば、『精神現象学』における「絶対的本質の自己展開」と言われていたものは、神秘的どころではなく、まったく妥当で本質的な洞察に満ちた近代精神の展開の範型として読むことができるのである。

ヘーゲル 其の一

ヘーゲルはヨーロッパ近代史を、「近代精神」が自己の本質である「自由」を自覚してゆくプロセスとして描き出した。

はじめに「自分から疎遠になった精神」の段階があり、つぎに、精神が自己の在り方をより深く自覚していく「自分自身を確信している精神」の段階へと進む。

「自分から疎遠になった精神」では、人間精神は社会の矛盾を意識しこれを指摘することはできるけれど、矛盾を克服する現実的な道すじを見出せないために内的に分裂し、ただ「冷笑的態度」をとるしかない。

やがて近代社会が本格的にはじまると、そこに「啓蒙と信仰の対立」ということが生じる。
ここでは、おそらくプロテスタントの新しい「信仰」と合理主義的啓蒙主義の対立がイメージされている。

「信仰」する精神は、「啓蒙」の合理主義を世俗的な魂であるとして非難する。しかし「啓蒙」の精神のほうが、「信仰」の精神を古い神学的世界像を脱することができないものとしてあざ笑う。

たしかに時代の趨勢は「啓蒙」の精神に力を与えており、この流れはもとに戻せない。しかしヘーゲルによれば、にもかかわらず、この啓蒙の嘲笑は、啓蒙精神の未熟さの現われなのである。

「啓蒙」は「信仰」の本質を、単なる世界についての古い知見、無知と迷妄の結果だと考えている。あるいはまた、自己愛が潜んでいるのに純粋な他愛によってそれを装う欺瞞がある、と批判する。

しかし「信仰」の本質は、じつは精神の「絶対本質」(ほんとうのもの、至上のもの)への希求、ということにある。そして「啓蒙」の精神もまた「絶対本質」をつかもうとする力によって生きている。

ただ「信仰」では、それが超越的な場所に「外化」(疎外)され、自己から分離した頭上の絶対者(超越者)として「表象」されているにすぎず、両者の「本質」はもともと異なったものではない。まさしくそのことを「啓蒙」は理解していない、とヘーゲルは言う。

ここでのポイントは、「精神」が自らを展開させる根本動機として、ヘーゲルが「絶対本質」という概念を提示している点である。

カント 其の五

カントの思考法は大変特徴的で、議論はつねに、人間は「自由」な存在であり、またそうでなくてはならない(かくあるべき=当為)、という前提から出発します。つまり、カントによれば「法」とは、なにより当為としての「正しさ」を確保するためのものなのです。

こうしてカントは、人間存在の本質を「自由」と規定することで、近代社会の「法」と「権利」の考え方をまったく新しく根拠づけました。このときはじめて、人間の「法」と「権利」の秩序の根拠が理念的に一致させられ、法の支配を核とする市民社会の基本的設計図が完成するのです。

というのは、伝統的な身分制社会では、「法」と「権利」の根拠は基本的に王の権威に存在し、それはまた神の権威を支えにしています。人間の諸権利は自立的には存在しておらず、「法秩序」の要請から確保されるだけです。「権利」という概念は、貴族や教会の権限ということを意味し、「個人」に属するものではなかった。

これに対して、カントの「法」と「権利」の概念は、完全に社会の成員全員を対等なメンバーシップとする市民社会概念に適合するものとなっています。

このように、ひとことで言って、カントはこれまでの哲学論議の前提を完全に破壊することでまったく新しい「人間学」を創設しました。その「原理」から「法」と「権利」の概念を市民社会的な本質へと鍛え直し、そのことで近代社会の政治的、社会的設計図をうち立てたのです。

カントが根底的な哲学者であるのは、彼がまさしくそのようなかたちで、時代の要請と課題に原理的思考によって応えたからです。