2008年3月11日火曜日

カント

近代哲学における最大の中心問題は「認識問題」、つまり「主観-客観」問題である。

人間の認識能力は、果たして「客観」現実を正しく捉えうる原理をもっているのか、というのがその問題点だった。デカルトは人間の認識能力はこの原理を検証できないが、人間の認識能力を作った神は人間を欺いているはずがないから、人間は自分の認識能力を信用していいのだ、と主張した。

これに対して、カントは、人間の理性の能力は「客観世界」(=「物自体」)を認識する原理を持たないとはっきり結論した。神の存在も同様であるから、神も援用することはできないのだ。しかしヘーゲルは、この問題に苦しみながらも、条件をつければ不可能ではないと主張した(ライプニッツやスピノザも条件付き可能派と言える)。

カントの考えはこうだ。たとえば一つのリンゴをさまざまな生き物が経験すると考える。すると、このリンゴの「存在」は、それぞれの〝身体性〟(「感性や悟性の形式」=認識能力・感受能力・欲望の形式)に応じて違ったものになるはずだ。

人間にとっては、それは「みずみずしい果物」である。猫にとってはリンゴは食べ物ではないから、ただ丸くてじゃれると転がるような「存在」でしなかい。トンボには、丸い形では認知できるかもしれないが、そもそも「何ものでもない」ような存在かもしれない。アメーバーにとってそれは、〝丸いもの〟ですらなく、もっと他の「存在」だろう。

カントはこの図式から、アメーバ→トンボ→猫→人間と、高等な生きものになるにしたがって認識もまた次第に高度になると考えた。つまりどんな認識も制限されたものだが、高度になるにしたがって、その制限が小さくなっていくと考えた。すると二つのことが出てくる。

一つは、人間はその「感性・悟性・理性」の形式が認識能力の限界になっており、世界の「客観」それ自体は原理的に認識不可能であること。もう一つは世界の「客観」を正しく認識できるものがあるとすれば、それは「神の認識」(これは制限されてない)だけだということである。

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