2008年3月25日火曜日

カント 其の三

次にカントの道徳哲学について。

それは、ひとことでいえば、それまで〝被造物〟と考えられていた人間存在について、その「自由」をいかに根拠づけるか、という課題でした。

カントの体系では、人間の認識能力は三つの領域に区分されます。
ひとつは感覚的素材を受け入れる「感性」。これを統合してそのつどの認識、判断をもたらす「悟性」。そして、この与えられた現実的判断から推論を行う能力である「理性」です。

「理性」は推論の能力をうけもつが、さきにも触れたようにこの能力は独自の本性をもっている。与えられた判断の与件からその因果の系列をどこまでも遡及する、という能力です。つまり理性は、いま与えられているもの(与件)の「因果」の系列をどこまでも辿り、一方では根本原因へ遡行し、もう一方で事態の完全性、全体性の表象へといたろうとする本性をもちます。

カントによれば、ここに「理想」(=理念)を思い描く人間的能力の根拠があります。そして人間の「倫理」(=善悪)の本質的な根拠は、この「理想」を思い描かずにはいない人間の理性の本性から現われるのです。

「アンチノミー」が示したのは、人間の理性は世界の完全性を思い描くために「形而上学」的な問いを作り出すが、しかしそれは経験敵領域を越えているために原理的に答えられない問いとなる、ということでした。

しかし一方で、この完全や全体を思い描く理性の能力は、現在の状態を不完全なものとみなし、そこから理想状態を思い描く能力につながります。カントによれば、この理想状態を思い描いてそこへ向かおうとする能力こそ近代の人間の本質的な能力なのです。

あるべき善き状態を推論し、その状態へ向かって意志すること、これが人間の「自由」の本質です。カントのこの着想は、近代の人間思想として決定的に重要な意味をもっていました。 なぜなら、この考えからは、善きことへと向かう人間の在り方は、もはや神学的根拠から離れて、ただ「純粋理性」と「実践理性」という誰にでもそなわっている能力に根拠づけられるからです。

こうしてカントは、人間存在の本質を、長く続いてきた「聖なる世界像」から完全に切断し、人間の理性の本性として「自由」という点に基礎づけます。 人間の「自由」は神から与えられたものではなく、むしろ人間の存在本性それ自身が「自由」なのです。

そしてこの「自由」という人間存在の本性から「道徳」(善悪)の根拠が導かれます。

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