2008年3月25日火曜日

ヘーゲル 其の四

「啓蒙と信仰の対立」において「啓蒙」の勝利は必然的なものである。

「信仰」の世界説明はどうしても精神世界を限定することになり、つぎつぎに展開する世界の新しい関係をとらえることができない。近代社会において、人間の理性は新しい社会のさまざまな現象を一貫して整合的に捉えようとする恐るべき力を発揮するが、この力は「啓蒙」にだけあるのである。

「啓蒙」はその途上で、さきに触れた「理神論」と「唯物論」という新しい世界像を展開するが、そのせめぎあいの果てに「功利主義」(=「有用性」)の世界像が現われる。

功利主義の考え方のエッセンスは、あらゆるものは、「それ自体としても」(即自)存在するが、同時に「他の何かのために」(対他)としても存在する、ということである。人間も事物も、それ自体の「本質」として存在するのではなく、じつは互いに規定しあう「本質」として存在する。これが「有用性」の思想である。

すべてのものが、「~にとって」「~のために」といった存在意味において存在する。重要なのは、このような見方は、すべての人間(および事物)が必ず何か上位のものに〝属する〟ものとみなされていた中世社会では現われえなかったものの見方である、ということである。

つまり、これは市民社会において、人間も事物も相互規定的に何らかの有用性をもつ存在だ、というリアリティの中ではじめて見出された考え方なのである。

「功利主義」(有用性)という人間の新しい存在本質の発見によって、人間の精神はつぎの段階、「自分自身を確信している精神」の段階に入る。

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