2008年3月13日木曜日

「自由の相互承認」について

(1)「絶対的な真理」というものは存在しない。神のような超越性の視点を括弧に入れてしまうと、われわれが「真理」とか「客観」と呼んでいるものは、万人が同じものとして認識=了解するもののことである。人間の認識は、共通認識の成立しえない領域を構造的に含んでおり、そのため、「絶対的な真理」「絶対的な客観」は成立しない。

(2)しかし逆に、われわれが「客観」や「真理」と呼ぶものはまったくの無根拠であるとはいえない。そのような領域、つまり共通認識、共通了解の成立する領域が必ず存在し、そこでは科学、学問的知、精密な学といったものが成り立つ可能性が原理的に存在する。ニーチェやヴィトゲンシュタインを含めて、相対主義や懐疑主義的な思考の系譜は、総じてこの領域について適切な解明を行うことができない。

(3)共通了解が成立しない領域は、大きくは宗教的世界像、価値観に基礎づけられた世界観(その特殊性を強引に普遍化しようとすると「イデオロギー」となる)、美意識、倫理意識、習俗、社会システム、文化の慣習的体系等々である。およそ人間社会における宗教、思想(イデオロギー)対立の源泉は、この領域の原理的な一致不可能性に由来する。

(4)しかし、この認識領域の基本構造が意識され、自覚されるなら、そういった宗教、思想(イデオロギー)対立を克服する可能性の原理が現われる。すなわちそれは、世界観、価値意識の「相互承認」という原理である。
たとえば世界観はその本性上、絶対性をもたず仮構的なものだから必然的に多様性をもつ。しかしまた世界観は、人間の世界理解の基本構造なので存在しないわけにはいかない。だから宗教的世界観を廃絶することはできないし、絶対的に一元化することもできない。これは社会的な価値観、人間的価値観も同じ本質をもつ。

(5)ここから、異なった世界観、価値観の間の衝突や相克を克服する原理は、ただ一つであることが明確になる。すなわち、それらの「多様性」を相互に許容しあうこと、言いかえれば多様な世界観、価値観を不可欠かつ必然的なものとして「相互承認」することだが、この世界観、価値観の「相互承認」は、近代以降の「自由の相互承認」という理念を前提的根拠とする。「自由の相互承認」が各人の相互的心意によっては確保されず、「ルール」を必要とするのと同様に、世界観と価値観の「相互承認」も、その確保はルール形成によってのみ可能となる。


(『現象学は<思考の原理>である』竹田青嗣・ちくま新書 より引用)

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