2008年3月11日火曜日

人間の欲望の本質

人間の欲望の本質は、生理的な欲求を充足することを超え出ているのであって、ひとことで言って「存在可能」(ありうる)一般として定義できる。人間の欲望は固定的な「対象」と「目標」をもたない。
また人間の欲望は価値相関的なもので、「真・善・美」という価値審級を一般対象とすると言える。したがって「ほんとう」「よいこと」「美しいもの」が、人間欲望の対象の本質である。

ただ、カントの「理性の完全性」概念が示唆しているように、人間精神は、具体的な与件を出発点として、そこからたえずより「よいもの」、より「美しいもの」を欲求するというかたちをとる。そしてそれは範例の意識としては「理想を思い描く」ということですが、概念としては「超越性」「至高性」「ほんとう」といった概念、つまり「絶対本質」となります。

動物における欲求(欲望)とその対象の関係は一義的かつ固定的である。動物はそもそも自分が捕獲できるものしか欲求せず、その条件も自然によって限定されている。

しかし、人間では、欲望の対象も、これを実現する身体的能力も、まったく固定的ではない。人間の欲望は、他者との関係のなかで、つまり「普遍的承認ゲーム」のなかで無限に作り出されてゆくものであり、自分自身がまたさまざまな「能力」を開発してゆく「可能性の身体」をもつ。
このため、人間における「欲望の対象(目標)」と「可能性(能力)」との関係は、まさしく一種〝無限な〟関係として現われる。人間の欲望と身体が「幻想的」な本質をもつとはそういう意味においてである。

人間の欲望は自己欲望であり、かつ関係的欲望である。まさしくこの欲望論的な基底が、人間の欲望の対象の本質を定義する。すなわち人間の欲望の対象は、自己価値をめぐるが同時に関係化されたものでもあり、そのことによって「真・善・美」という価値審級をその意味とするものである。

人間のエロスは、単なる「快苦の享受」ではなく「意味の享受」であり、それは関係の織物としての価値審級(真・善・美)という様態において、人間の幻想的身体にもたらされる。人間の生の本質は、この「関係の世界」のなかで、諸価値と意味のありようを絶えず自己の存在可能との連関のなかで刷新しながら、その生を味わいつつ生きる、ということであって、まさしくそこに「自由」の感覚の核がある。

人間は誰でも、このような自己の実存の本質をうすうす了解しており、そのためにどのような状態にあっても「自由」への本性的希求を手放さない。生の基本条件として「自由」であることは、人間にとってエロスを豊かに享受するための本質条件なのである。

人間の生の感覚の基底にあるのは、現実の拘束(条件)と、絶えずそれを超え出ようとする可能性(自由)のせめぎあいである。近代社会が「自由」の解放という長く閉ざされていた重い扉を押し開けようとしたとき、この理念は、人間に「生のエロス」の本質的な可能性を示唆した。まさしくそのため、この可能性は人間にとって本質的かつ不可逆的な「欲望の対象」となったのである。

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