2008年3月25日火曜日

ヘーゲル 其の一

ヘーゲルはヨーロッパ近代史を、「近代精神」が自己の本質である「自由」を自覚してゆくプロセスとして描き出した。

はじめに「自分から疎遠になった精神」の段階があり、つぎに、精神が自己の在り方をより深く自覚していく「自分自身を確信している精神」の段階へと進む。

「自分から疎遠になった精神」では、人間精神は社会の矛盾を意識しこれを指摘することはできるけれど、矛盾を克服する現実的な道すじを見出せないために内的に分裂し、ただ「冷笑的態度」をとるしかない。

やがて近代社会が本格的にはじまると、そこに「啓蒙と信仰の対立」ということが生じる。
ここでは、おそらくプロテスタントの新しい「信仰」と合理主義的啓蒙主義の対立がイメージされている。

「信仰」する精神は、「啓蒙」の合理主義を世俗的な魂であるとして非難する。しかし「啓蒙」の精神のほうが、「信仰」の精神を古い神学的世界像を脱することができないものとしてあざ笑う。

たしかに時代の趨勢は「啓蒙」の精神に力を与えており、この流れはもとに戻せない。しかしヘーゲルによれば、にもかかわらず、この啓蒙の嘲笑は、啓蒙精神の未熟さの現われなのである。

「啓蒙」は「信仰」の本質を、単なる世界についての古い知見、無知と迷妄の結果だと考えている。あるいはまた、自己愛が潜んでいるのに純粋な他愛によってそれを装う欺瞞がある、と批判する。

しかし「信仰」の本質は、じつは精神の「絶対本質」(ほんとうのもの、至上のもの)への希求、ということにある。そして「啓蒙」の精神もまた「絶対本質」をつかもうとする力によって生きている。

ただ「信仰」では、それが超越的な場所に「外化」(疎外)され、自己から分離した頭上の絶対者(超越者)として「表象」されているにすぎず、両者の「本質」はもともと異なったものではない。まさしくそのことを「啓蒙」は理解していない、とヘーゲルは言う。

ここでのポイントは、「精神」が自らを展開させる根本動機として、ヘーゲルが「絶対本質」という概念を提示している点である。

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