2008年3月11日火曜日

ニーチェ

「主観-客観」問題のコード(それまでの前提)を大きく転回したのはニーチェである。ニーチェはそもそも「客観存在」なんてものは存在しない、と言う。「現実それ自体というものはない、ただ解釈だけがある」。ではなにが解釈を可能にしているか、「力への意志」にほかならない。

先に述べたカントの考え方から、「神の存在」という項目を取り払えば、そのままニーチェの考え方になる。違いは一点だが、その帰結するところは極めて甚大である。

ニーチェは神を認めない。すると、つまり、存在するさまざまな生き物の数だけ多様な経験される「世界」が存在する、ということになる。これは言葉をかえれば、さまざまな「生きられている世界」が存在するだけだ、ということである。

では「客観世界」はどうなるか。ニーチェに言わせればそれは、どんな生き物によっても原理的に「経験されない世界」なのだから、ただ理念的に想定できるだけの「世界」、実在性をもたない「世界」だとしか言えない。だから「客観世界」なるものは実在しない。

したがってまた「客観とは何か」ということ、客観の「存在(ありかた)」について問うことは無意味である。あえて言えば、人はただそれを、「カオス」という形で理解するしかない――。

カントでは、人間はその認識能力が「完全なもの」でないために、「客観世界」を認識できない。
これに対してニーチェによれば、「認識能力の限界」とか「完全な認識能力」などという概念がそもそも「背理」である。むしろさまざまな生き物のさまざまな「認識仕方」があるだけだ。

もともと認識の対象とはならない「カオス」としての世界がある。そしてさまざまな生き物が、その「力への意志」(身体・欲望・関心・配慮と考えればいい)に応じて(相関して)、そこから「世界」の「存在(ありかた)」を受けとっているだけである・・・。

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