2008年3月25日火曜日

ヘーゲル 其の六

「自由」な存在となること、自分の生き方を自己決定しうることは、近代人の生の欲望の新しい目標、言い換えれば、宗教的な「信仰」に代わる人間にとっての新しい「超越」(=「絶対本質」)となったのである。

こうして、近代人の求める「絶対本質」は、「わたしの意志は万人の意志であり、万人の意志がわたしの意志である」という「絶対自由」の理念へと結実していく。「絶対自由」は近代の「啓蒙思想」の最高の到達点であり、その実現の試みがフランス革命である。

ここで「絶対自由」は「民衆」という理念を生みだす。「民衆のために」はひとつの絶対的スローガンとなるが、しかしもはやそれは「信仰」のように彼岸におかれたものではなく、各人の具体的な「自由」と切り離されていない。

「私の意志は、万人の意志である」というとき、他ならぬこの「私」が同時に絶対的な「民衆」でもある。ここでは、「私」という特殊性が、「民衆」という観念に媒介されてそのまま「普遍性」につながっていると感じられる。

ヘーゲル 其の五

「有用性」の思想は、人間の存在意味に決定的な変革を与える。人間はそれまで「被造物」であり、つねにより上位のものに属する何者かであった。人間の本質は「彼が何に属しているか」によって決定されるものだった。つまり「信仰」や「出自」や「身分」がその人の本質であった。

しかし市民社会での社会関係は人間の価値規定を決定的に変化させる。新しい社会では、人間の価値は、一般的に言って、彼が「何であるか」(何に属しているか)ではなく、「何になるか」(どれほど有用な存在になるか)で決まる。

そしてまさしく、この社会と価値の変化が、人々の「自由」の自覚をいっそう育て上げていく。 このような流れがひとたび始まると、人々の「自由」の解放に歯止めをかけようとする一切の既成の権威と思想は、人間の本質的な自由の発現を阻むものとして激しく指弾される。

逆に、旧守勢力はあらゆる手段を用いて新しい危険思想を抑え込もうとするが、いったん火のついた「自由」への希求は、生命を賭しても何度でも立ち上がってやむことがない。18世紀と19世紀のヨーロッパの歴史は、まさしく古いヨーロッパの体制と、生命を賭した「自由」への欲求の激しいせめぎ合いの歴史であった。

ヘーゲル 其の四

「啓蒙と信仰の対立」において「啓蒙」の勝利は必然的なものである。

「信仰」の世界説明はどうしても精神世界を限定することになり、つぎつぎに展開する世界の新しい関係をとらえることができない。近代社会において、人間の理性は新しい社会のさまざまな現象を一貫して整合的に捉えようとする恐るべき力を発揮するが、この力は「啓蒙」にだけあるのである。

「啓蒙」はその途上で、さきに触れた「理神論」と「唯物論」という新しい世界像を展開するが、そのせめぎあいの果てに「功利主義」(=「有用性」)の世界像が現われる。

功利主義の考え方のエッセンスは、あらゆるものは、「それ自体としても」(即自)存在するが、同時に「他の何かのために」(対他)としても存在する、ということである。人間も事物も、それ自体の「本質」として存在するのではなく、じつは互いに規定しあう「本質」として存在する。これが「有用性」の思想である。

すべてのものが、「~にとって」「~のために」といった存在意味において存在する。重要なのは、このような見方は、すべての人間(および事物)が必ず何か上位のものに〝属する〟ものとみなされていた中世社会では現われえなかったものの見方である、ということである。

つまり、これは市民社会において、人間も事物も相互規定的に何らかの有用性をもつ存在だ、というリアリティの中ではじめて見出された考え方なのである。

「功利主義」(有用性)という人間の新しい存在本質の発見によって、人間の精神はつぎの段階、「自分自身を確信している精神」の段階に入る。

ヘーゲル 其の三

ヘーゲルは「歴史」を以下のように描いた。

人間は現実の世界を生きてさまざまな矛盾を感じ、そこからさまざまな「理想理念」を思い描く。それは人間精神がどんな惨めな条件からでも必ず「ほんとう」を希求せざるをえない本性をもつからだ。

もちろん個別的には、単なる快楽の享受や幸福やその他の目標でとどまる人間が大多数だが、人間の精神の進み行きを大きな歴史の流れにおいて見れば、徐々に「ほんとう」への希求のかたちをより本質的なものへと展開させていると言える。

近代に至るまでそれは、主として宗教以外のかたちをとることはなかった。啓蒙主義ははじめてこれを頑迷かつ欺瞞にみちた制度、あるいは無知と蒙昧にある錯誤した精神とみなして批判する。

しかし、宗教(信仰)の本質は必ずしも無知や蒙昧というところにあるのではない。「ほんとう」への希求ということがその本質なのである。

しかし、「信仰」にとってその本質は自覚されてはいず、ある外的な超越者への絶対的な帰依として保たれている。ここにさまざまな矛盾が現われる。
しかし人間精神は、この矛盾に押されても、自己の内的な本質が外的な「超越者」となっていたことを少しずつ自覚しないではいない。

近代における「啓蒙」と「信仰」のせめぎ合いは、そのような、精神の内的な自覚の苦闘のプロセスなのである。

ヘーゲル 其の二

この「絶対本質」というミスリーディングな概念こそ、『精神現象学』のキーコンセプトである。 これはしばしば、神秘主義的、観念論的、実念論的な「実在者」、つまり「至上存在=神」とほとんど同義のものとして読まれている。しかし、「絶対本質」は人間的欲望の「超越性」として読むのが適切である。

人間の欲望の本質は、生理的な欲求を充足することを超え出ているのであって、ひとことで言って「存在可能」(ありうる)一般として定義できる。人間の欲望は固定的な「対象」と「目標」をもたない。

また人間の欲望は価値相関的なもので、「真・善・美」という価値審級を一般対象とすると言える。したがって「ほんとう」「よいこと」「美しいもの」が、人間的欲望の対象の本質である。

カントの「理性の完全性」概念が示唆しているように、人間精神は、具体的な与件を出発点として、そこからたえずより「よいもの」、より「美しいもの」を欲求するというかたちをとる。それは範例の意識としては「理想を思い描く」ということだが、概念としては「超越性」「至高性」「ほんとう」といった概念、つまり「絶対本質」となる。

重要なのは、ヘーゲルが、人間精神が自らの本質を展開してゆくその根本動機として、精神の「絶対本質」への希求、という「原理」を提出しているということである。すなわち、精神は、もし条件があればより「ほんとう」のものを求めようとする本性をもっている、ということになる。

そう考えれば、『精神現象学』における「絶対的本質の自己展開」と言われていたものは、神秘的どころではなく、まったく妥当で本質的な洞察に満ちた近代精神の展開の範型として読むことができるのである。

ヘーゲル 其の一

ヘーゲルはヨーロッパ近代史を、「近代精神」が自己の本質である「自由」を自覚してゆくプロセスとして描き出した。

はじめに「自分から疎遠になった精神」の段階があり、つぎに、精神が自己の在り方をより深く自覚していく「自分自身を確信している精神」の段階へと進む。

「自分から疎遠になった精神」では、人間精神は社会の矛盾を意識しこれを指摘することはできるけれど、矛盾を克服する現実的な道すじを見出せないために内的に分裂し、ただ「冷笑的態度」をとるしかない。

やがて近代社会が本格的にはじまると、そこに「啓蒙と信仰の対立」ということが生じる。
ここでは、おそらくプロテスタントの新しい「信仰」と合理主義的啓蒙主義の対立がイメージされている。

「信仰」する精神は、「啓蒙」の合理主義を世俗的な魂であるとして非難する。しかし「啓蒙」の精神のほうが、「信仰」の精神を古い神学的世界像を脱することができないものとしてあざ笑う。

たしかに時代の趨勢は「啓蒙」の精神に力を与えており、この流れはもとに戻せない。しかしヘーゲルによれば、にもかかわらず、この啓蒙の嘲笑は、啓蒙精神の未熟さの現われなのである。

「啓蒙」は「信仰」の本質を、単なる世界についての古い知見、無知と迷妄の結果だと考えている。あるいはまた、自己愛が潜んでいるのに純粋な他愛によってそれを装う欺瞞がある、と批判する。

しかし「信仰」の本質は、じつは精神の「絶対本質」(ほんとうのもの、至上のもの)への希求、ということにある。そして「啓蒙」の精神もまた「絶対本質」をつかもうとする力によって生きている。

ただ「信仰」では、それが超越的な場所に「外化」(疎外)され、自己から分離した頭上の絶対者(超越者)として「表象」されているにすぎず、両者の「本質」はもともと異なったものではない。まさしくそのことを「啓蒙」は理解していない、とヘーゲルは言う。

ここでのポイントは、「精神」が自らを展開させる根本動機として、ヘーゲルが「絶対本質」という概念を提示している点である。

カント 其の五

カントの思考法は大変特徴的で、議論はつねに、人間は「自由」な存在であり、またそうでなくてはならない(かくあるべき=当為)、という前提から出発します。つまり、カントによれば「法」とは、なにより当為としての「正しさ」を確保するためのものなのです。

こうしてカントは、人間存在の本質を「自由」と規定することで、近代社会の「法」と「権利」の考え方をまったく新しく根拠づけました。このときはじめて、人間の「法」と「権利」の秩序の根拠が理念的に一致させられ、法の支配を核とする市民社会の基本的設計図が完成するのです。

というのは、伝統的な身分制社会では、「法」と「権利」の根拠は基本的に王の権威に存在し、それはまた神の権威を支えにしています。人間の諸権利は自立的には存在しておらず、「法秩序」の要請から確保されるだけです。「権利」という概念は、貴族や教会の権限ということを意味し、「個人」に属するものではなかった。

これに対して、カントの「法」と「権利」の概念は、完全に社会の成員全員を対等なメンバーシップとする市民社会概念に適合するものとなっています。

このように、ひとことで言って、カントはこれまでの哲学論議の前提を完全に破壊することでまったく新しい「人間学」を創設しました。その「原理」から「法」と「権利」の概念を市民社会的な本質へと鍛え直し、そのことで近代社会の政治的、社会的設計図をうち立てたのです。

カントが根底的な哲学者であるのは、彼がまさしくそのようなかたちで、時代の要請と課題に原理的思考によって応えたからです。

カント 其の四

「自由は道徳の存在根拠であり、道徳は自由の認識根拠である」というよく知られたカントの言い方があります。

カントによれば、人間が道徳的存在でありうるのは人間が「自由」な存在だからであり、また人間が「自由」な存在でありうることは人間が道徳をもっていることがそれを証している、ということです。

「アンチノミー」による形而上学的思考の禁止、そして理性の本性から人間の存在本性を「道徳」への「自由」として定立したこと。これが近代哲学におけるカントの業績の決定的な点です。プ

人間はその存在本性が「自由」であり、したがって冒しがたい尊厳をもっている。だから人間は存在自体が「目的」であるような存在であり、何びとも人間を「手段」として扱ってはならない。

このような考えは、いうまでもなく、既成勢力の古い権威から、「人間」を、つまり個々の人間の具体的な「自由」と諸権利を守るための(というより「解放」するための)理念でもありました。

いかなる行為も、その行為そのものについて見て、あるいはその行為の格率に即して見て、各人の意思の自由が何びとの自由とも普遍的法則に従って両立しうるような、そういう行為であるならば、その行為は正しい。(「法論への序論C」より

法(Right)は、正しい(Right)ことに根拠づけられなければならないが、ここで行為の「正しさ」とは、ある人間の自由な行為が他の人々の「自由」をまったく侵害しないかたちで確保されるかどうかで判定されます。逆に言うと、ある行為は、それが万人の「自由」の確保を少しでも阻害したり脅かしたりする場合は、「正しくない」ということになる。

カント 其の三

次にカントの道徳哲学について。

それは、ひとことでいえば、それまで〝被造物〟と考えられていた人間存在について、その「自由」をいかに根拠づけるか、という課題でした。

カントの体系では、人間の認識能力は三つの領域に区分されます。
ひとつは感覚的素材を受け入れる「感性」。これを統合してそのつどの認識、判断をもたらす「悟性」。そして、この与えられた現実的判断から推論を行う能力である「理性」です。

「理性」は推論の能力をうけもつが、さきにも触れたようにこの能力は独自の本性をもっている。与えられた判断の与件からその因果の系列をどこまでも遡及する、という能力です。つまり理性は、いま与えられているもの(与件)の「因果」の系列をどこまでも辿り、一方では根本原因へ遡行し、もう一方で事態の完全性、全体性の表象へといたろうとする本性をもちます。

カントによれば、ここに「理想」(=理念)を思い描く人間的能力の根拠があります。そして人間の「倫理」(=善悪)の本質的な根拠は、この「理想」を思い描かずにはいない人間の理性の本性から現われるのです。

「アンチノミー」が示したのは、人間の理性は世界の完全性を思い描くために「形而上学」的な問いを作り出すが、しかしそれは経験敵領域を越えているために原理的に答えられない問いとなる、ということでした。

しかし一方で、この完全や全体を思い描く理性の能力は、現在の状態を不完全なものとみなし、そこから理想状態を思い描く能力につながります。カントによれば、この理想状態を思い描いてそこへ向かおうとする能力こそ近代の人間の本質的な能力なのです。

あるべき善き状態を推論し、その状態へ向かって意志すること、これが人間の「自由」の本質です。カントのこの着想は、近代の人間思想として決定的に重要な意味をもっていました。 なぜなら、この考えからは、善きことへと向かう人間の在り方は、もはや神学的根拠から離れて、ただ「純粋理性」と「実践理性」という誰にでもそなわっている能力に根拠づけられるからです。

こうしてカントは、人間存在の本質を、長く続いてきた「聖なる世界像」から完全に切断し、人間の理性の本性として「自由」という点に基礎づけます。 人間の「自由」は神から与えられたものではなく、むしろ人間の存在本性それ自身が「自由」なのです。

そしてこの「自由」という人間存在の本性から「道徳」(善悪)の根拠が導かれます。

カント 其の二

さきに述べたように、理性は「推論」の能力です。われわれの理性は、世界がどのようになっているのかという問いに対して、どこまでも推論の能力を行使し、そのことで、ある完全な世界の像をとらえようとします。

しかしカントは、まさしくそれがゆえに世界についての人間の純粋理性の能力は、必ずある解きがたい「アンチノミー」(二律背反)にゆきつく必然性をもっている、というのです。有名な四つの「世界の問い」は以下のとおりです。

(1)世界には始まり(時間的出発点)、あるいは空間的限界があるか、ない
   か。
(2)事物をどこまでも分割していくと、もうそれ以上分割できない最小単位に
   ゆきつくか、それとも物質はどこまでも果てなく分割できるか。
(3)およそすべての生起する出来事は、必ず原因結果の系列のうちにある
   のか、それともどんな因果律からも自立した原因としての「自由」が存在
   するのか。
(4)この世界の一切の秩序を統括する至上存在者(=神)といったものは存
   在するのか、しないのか。

カントはこれらの問いに関して、「ある」(正命題)という答えも、「ない」(反命題)という答えも等しく論理的に証明できる、ということを示します。そのことでカントは、これらの「問い」(=世界は永遠か、有限か等)に答えること自体が「不可能」であることを証明し、そのような仕方でこういった「形而上学」的な問いの無効性を宣言するのです。

すなわち、カントが問うたのは、世界存在、物質の存在、自由の存在、神の存在といった問い、すなわち「存在の謎」という形而上学的な問いそのものの本質なのです。

哲学は不可避的に「存在の謎」を生みだす。しかしこの謎は不毛な問いであって果てないスコラ議論を生むだけのものだ。だからこれを終焉させ、この仮象的な問いを支えている動機であるところの本質的な問いを取り出して、これを問うべきである、とカントは考えました。

カントの「アンチノミー」は、すべての問いに答えがあるわけではなく、世の中には原理的に解答不可能な問いがあるということをわれわれに示しています。カントの「アンチノミー」の決定的な功績は、このような仕方で彼が、それまでのスコラ神学的な哲学思考の残滓を消し去ったことです。

カントが「アンチノミー」で「存在の謎」の仮象性に終焉を宣告したということ、これは近代哲学の術語では、「認識問題」にある決定的な終止符を打つことでもありました。

カント 其の一

われわれがカント哲学から受けとるべき最大の業績は二つです。

ひとつは純粋理性の「アンチノミー」という独自の問題設定によって伝統的な「形而上学」(とくにスコラ哲学的諸問題)をすべて〝かたづけた〟ということ。
もうひとつは、そのことによって「道徳哲学」という新しい哲学的探求の領域を創出したことです。

また、この二つの仕事の最大の力点は、「善悪」(および「美醜」)の問題の探求を旧来の神学的な領域(=聖なるものの領域)から完全に引き離して、近代的な思考として立て直したことで、これは、近代哲学の「人間」概念の刷新という点で、第一に挙げられるべき画期的な業績です。

カントが立てたこの二つの問題設定は、ある意味で現代思想もまだその枠組みを根本的に超え出ていないと言えるほど根本的なものであり、そのため、われわれが思想上の難問にぶつかるとき、まずカントの問題設定まで遡るべき理由があるのです。

すなわち、第一の問題は「正しい認識は可能か」、という認識問題であり、第二の問題は、「善悪」「美醜」といった人間的価値の原理は何か、という問題です。

2008年3月13日木曜日

フッサール

フッサールが「意識の本質」を把握せよと言うとき、それはつまり、知覚体験において誰にとっても「共通項」として取り出しうることがらを記述せよ、ということを意味している。

「現象学的還元」は、「私の意識」に生じている体験のありようをやみくもに、〝ありのままに〟記述するのではない。そんなことは不可能に決まっている。「私の意識」に生じている体験のありようから、他者にとっても必ず生じているはずだと考えられるもの、すなわち共通項と考えられるものを「抽出する」作業、それが「還元」である。

ここでは「知覚」という体験の共通項を取り出す作業が、知覚の現象学的還元であり、「意識体験の本質」あるいは「意識のア・プリオリ」を把握するとは、すなわちそういうことなのである。

もっとも肝要なのは、なぜこのような意識体験の「共通構造」=「本質構造」を取り出す必要があるのか、ということである。一体何のために「還元」を行う必要があるのか。

その答えは、「確信成立の条件と構造」を解明するためである。 そして、このアイデアが現象学という方法の最大のメルクマールなのだ。 この根本アイデアが、現象学をして近代哲学の根本問題であった「認識問題」を解消させ、現象学を哲学的思考のもっとも進んだ原理論たらしめているといえるのである。

フッサールは、現象学的還元の方法が、ヨーロッパ哲学の根本問題である「認識問題」を完全に解明するアイデアであるという確信をもっていた。言いかえれば、「認識問題」を解明するには、人間の認識の構造を「信憑構造」として捉え、この構造の共通本質を取り出せばよい、という思想的直観をフッサールがもっていたということである。逆にいえば、現象学的還元の方法は、人間の認識構造を「信憑構造」として捉えよ、という要請から出てきた方法なのである。

(『現象学は<思考の原理>である』竹田青嗣・ちくま新書)

「自由の相互承認」について

(1)「絶対的な真理」というものは存在しない。神のような超越性の視点を括弧に入れてしまうと、われわれが「真理」とか「客観」と呼んでいるものは、万人が同じものとして認識=了解するもののことである。人間の認識は、共通認識の成立しえない領域を構造的に含んでおり、そのため、「絶対的な真理」「絶対的な客観」は成立しない。

(2)しかし逆に、われわれが「客観」や「真理」と呼ぶものはまったくの無根拠であるとはいえない。そのような領域、つまり共通認識、共通了解の成立する領域が必ず存在し、そこでは科学、学問的知、精密な学といったものが成り立つ可能性が原理的に存在する。ニーチェやヴィトゲンシュタインを含めて、相対主義や懐疑主義的な思考の系譜は、総じてこの領域について適切な解明を行うことができない。

(3)共通了解が成立しない領域は、大きくは宗教的世界像、価値観に基礎づけられた世界観(その特殊性を強引に普遍化しようとすると「イデオロギー」となる)、美意識、倫理意識、習俗、社会システム、文化の慣習的体系等々である。およそ人間社会における宗教、思想(イデオロギー)対立の源泉は、この領域の原理的な一致不可能性に由来する。

(4)しかし、この認識領域の基本構造が意識され、自覚されるなら、そういった宗教、思想(イデオロギー)対立を克服する可能性の原理が現われる。すなわちそれは、世界観、価値意識の「相互承認」という原理である。
たとえば世界観はその本性上、絶対性をもたず仮構的なものだから必然的に多様性をもつ。しかしまた世界観は、人間の世界理解の基本構造なので存在しないわけにはいかない。だから宗教的世界観を廃絶することはできないし、絶対的に一元化することもできない。これは社会的な価値観、人間的価値観も同じ本質をもつ。

(5)ここから、異なった世界観、価値観の間の衝突や相克を克服する原理は、ただ一つであることが明確になる。すなわち、それらの「多様性」を相互に許容しあうこと、言いかえれば多様な世界観、価値観を不可欠かつ必然的なものとして「相互承認」することだが、この世界観、価値観の「相互承認」は、近代以降の「自由の相互承認」という理念を前提的根拠とする。「自由の相互承認」が各人の相互的心意によっては確保されず、「ルール」を必要とするのと同様に、世界観と価値観の「相互承認」も、その確保はルール形成によってのみ可能となる。


(『現象学は<思考の原理>である』竹田青嗣・ちくま新書 より引用)

2008年3月12日水曜日

哲学の登場

人は古くから「存在の問い」をもっていた。
世界はどうやって生じたのか、人間はなぜ生きているのか、死んだらどうなるのか、私とは一体何なのか。これら「存在の問い」は、人間が自己意識をもちはじめると同時に現われたと考えられる。

古代の人々はこれらの問いに、「神話」や「宗教」をもちいて答えようとした。
「神話」や「宗教」は、人間が大昔から「存在の不安」をもち、自己の生の全体をイメージして、それに一定のかたちを与えないではいられなかったことをよく語っている。

どんな「神話」も「世界の意味」を与えている。「神話」と「宗教」は、世界を説明する方法としては多くのメリットをもっている。「物語」はシンプルで誰にも理解でき、多くの人間が古い賢人の言葉を共に信頼することで権威づけられ、そのことで人々は「聖-俗」「善-悪」の秩序を共有し、そのことが安定した共同体の基礎となる。

しかし、どの文明においても、「宗教」のあとに「哲学」が現われる。「神話」や「宗教」の世界説明には、共同体の枠を超えられない、という大きな弱点がある。そこで「哲学」の世界説明が登場する。
「哲学」は「物語」を使わず、「概念」を使って論理的に世界を説明する。

「概念」はどんな文明にも存在するので、哲学の世界説明は共同体の限界を超え出て広がってゆくことができる。この方法によって、異なった説明体系を超え出て普遍的な説明を目指すことができる。「哲学」の世界説明の最大のメリットは、世界説明の普遍性を作り出すという点にある。

それは、共同体と宗教的な枠組みを超え出ることができ、より広範な人々がこの世界説明の言語ゲームに参加できるということでもある。哲学においては、世界説明の良し悪しを決定するのは、特定の宗教的政治的権威ではなく、一般民衆なのである。

2008年3月11日火曜日

人間の欲望の本質

人間の欲望の本質は、生理的な欲求を充足することを超え出ているのであって、ひとことで言って「存在可能」(ありうる)一般として定義できる。人間の欲望は固定的な「対象」と「目標」をもたない。
また人間の欲望は価値相関的なもので、「真・善・美」という価値審級を一般対象とすると言える。したがって「ほんとう」「よいこと」「美しいもの」が、人間欲望の対象の本質である。

ただ、カントの「理性の完全性」概念が示唆しているように、人間精神は、具体的な与件を出発点として、そこからたえずより「よいもの」、より「美しいもの」を欲求するというかたちをとる。そしてそれは範例の意識としては「理想を思い描く」ということですが、概念としては「超越性」「至高性」「ほんとう」といった概念、つまり「絶対本質」となります。

動物における欲求(欲望)とその対象の関係は一義的かつ固定的である。動物はそもそも自分が捕獲できるものしか欲求せず、その条件も自然によって限定されている。

しかし、人間では、欲望の対象も、これを実現する身体的能力も、まったく固定的ではない。人間の欲望は、他者との関係のなかで、つまり「普遍的承認ゲーム」のなかで無限に作り出されてゆくものであり、自分自身がまたさまざまな「能力」を開発してゆく「可能性の身体」をもつ。
このため、人間における「欲望の対象(目標)」と「可能性(能力)」との関係は、まさしく一種〝無限な〟関係として現われる。人間の欲望と身体が「幻想的」な本質をもつとはそういう意味においてである。

人間の欲望は自己欲望であり、かつ関係的欲望である。まさしくこの欲望論的な基底が、人間の欲望の対象の本質を定義する。すなわち人間の欲望の対象は、自己価値をめぐるが同時に関係化されたものでもあり、そのことによって「真・善・美」という価値審級をその意味とするものである。

人間のエロスは、単なる「快苦の享受」ではなく「意味の享受」であり、それは関係の織物としての価値審級(真・善・美)という様態において、人間の幻想的身体にもたらされる。人間の生の本質は、この「関係の世界」のなかで、諸価値と意味のありようを絶えず自己の存在可能との連関のなかで刷新しながら、その生を味わいつつ生きる、ということであって、まさしくそこに「自由」の感覚の核がある。

人間は誰でも、このような自己の実存の本質をうすうす了解しており、そのためにどのような状態にあっても「自由」への本性的希求を手放さない。生の基本条件として「自由」であることは、人間にとってエロスを豊かに享受するための本質条件なのである。

人間の生の感覚の基底にあるのは、現実の拘束(条件)と、絶えずそれを超え出ようとする可能性(自由)のせめぎあいである。近代社会が「自由」の解放という長く閉ざされていた重い扉を押し開けようとしたとき、この理念は、人間に「生のエロス」の本質的な可能性を示唆した。まさしくそのため、この可能性は人間にとって本質的かつ不可逆的な「欲望の対象」となったのである。

ニーチェ

「主観-客観」問題のコード(それまでの前提)を大きく転回したのはニーチェである。ニーチェはそもそも「客観存在」なんてものは存在しない、と言う。「現実それ自体というものはない、ただ解釈だけがある」。ではなにが解釈を可能にしているか、「力への意志」にほかならない。

先に述べたカントの考え方から、「神の存在」という項目を取り払えば、そのままニーチェの考え方になる。違いは一点だが、その帰結するところは極めて甚大である。

ニーチェは神を認めない。すると、つまり、存在するさまざまな生き物の数だけ多様な経験される「世界」が存在する、ということになる。これは言葉をかえれば、さまざまな「生きられている世界」が存在するだけだ、ということである。

では「客観世界」はどうなるか。ニーチェに言わせればそれは、どんな生き物によっても原理的に「経験されない世界」なのだから、ただ理念的に想定できるだけの「世界」、実在性をもたない「世界」だとしか言えない。だから「客観世界」なるものは実在しない。

したがってまた「客観とは何か」ということ、客観の「存在(ありかた)」について問うことは無意味である。あえて言えば、人はただそれを、「カオス」という形で理解するしかない――。

カントでは、人間はその認識能力が「完全なもの」でないために、「客観世界」を認識できない。
これに対してニーチェによれば、「認識能力の限界」とか「完全な認識能力」などという概念がそもそも「背理」である。むしろさまざまな生き物のさまざまな「認識仕方」があるだけだ。

もともと認識の対象とはならない「カオス」としての世界がある。そしてさまざまな生き物が、その「力への意志」(身体・欲望・関心・配慮と考えればいい)に応じて(相関して)、そこから「世界」の「存在(ありかた)」を受けとっているだけである・・・。

カント

近代哲学における最大の中心問題は「認識問題」、つまり「主観-客観」問題である。

人間の認識能力は、果たして「客観」現実を正しく捉えうる原理をもっているのか、というのがその問題点だった。デカルトは人間の認識能力はこの原理を検証できないが、人間の認識能力を作った神は人間を欺いているはずがないから、人間は自分の認識能力を信用していいのだ、と主張した。

これに対して、カントは、人間の理性の能力は「客観世界」(=「物自体」)を認識する原理を持たないとはっきり結論した。神の存在も同様であるから、神も援用することはできないのだ。しかしヘーゲルは、この問題に苦しみながらも、条件をつければ不可能ではないと主張した(ライプニッツやスピノザも条件付き可能派と言える)。

カントの考えはこうだ。たとえば一つのリンゴをさまざまな生き物が経験すると考える。すると、このリンゴの「存在」は、それぞれの〝身体性〟(「感性や悟性の形式」=認識能力・感受能力・欲望の形式)に応じて違ったものになるはずだ。

人間にとっては、それは「みずみずしい果物」である。猫にとってはリンゴは食べ物ではないから、ただ丸くてじゃれると転がるような「存在」でしなかい。トンボには、丸い形では認知できるかもしれないが、そもそも「何ものでもない」ような存在かもしれない。アメーバーにとってそれは、〝丸いもの〟ですらなく、もっと他の「存在」だろう。

カントはこの図式から、アメーバ→トンボ→猫→人間と、高等な生きものになるにしたがって認識もまた次第に高度になると考えた。つまりどんな認識も制限されたものだが、高度になるにしたがって、その制限が小さくなっていくと考えた。すると二つのことが出てくる。

一つは、人間はその「感性・悟性・理性」の形式が認識能力の限界になっており、世界の「客観」それ自体は原理的に認識不可能であること。もう一つは世界の「客観」を正しく認識できるものがあるとすれば、それは「神の認識」(これは制限されてない)だけだということである。